消えた西印田駅の謎を追う!
一宮線とは名古屋鉄道の前身会社である名古屋電氣鐵道による大正元年(1912年)8月6日に押切~西印田間(16.5km)の開業を皮切りにその後幾多の変遷を遂げ昭和40年(1965年)4月25日に廃線となった名古屋と一宮を結ぶ鉄道路線である。この路線の廃線跡の探索に関してこれまで数々の有志の方々による報告がなされてきたが最近はそれも終息し時の流れから忘れさられようとしている 。そこでもう一度一宮線の歴史を振り返るとともに令和2年2月現在の廃線跡を歩き、その現状を報告することとした。 さらにこれまで明確にされてこなかった幻の駅「西印田」の存在した場所の特定を試みた。
1. 一宮線の歴史
2. 廃線跡の現状
3. 消えた「西印田駅」を追う
(1)一宮線の歴史
官報. 1912年04月05日大蔵省印刷局 [編] に記載が見られる通り明治40年(1907年)12月10日に軽便鉄道法にて名古屋市西区菊井町(押切)~中島郡一宮町字城屋敷(東一宮)間(12哩2 鎖)の複線軌道施設の認可を名古屋電氣鐵道 が受けたとあるが、これが一宮線のすべての始まりである。そこに至るまでの経緯として名古屋電氣鐵道(前身は愛知馬車鉄道)は名古屋市内における路面電車を開業させていた会社であったが、 全国的な電気鉄道敷設ブームが起こり名古屋市郊外に「郡部線」と呼ばれる地方路線を建設していくことになった。それが押切町から枇杷島橋を経由して庄内川を渡り小田井、西春、岩倉を経由し一宮に至る一宮線である。 建設予定区間の一部である押切町~枇杷島間は枇杷島線として 明治43年 (1910年)5月に先行開業したが、大正元年(1912年)8月6日に押切町~西印田間の一宮線と岩倉~犬山間の犬山線が開通した。開業記念として8月6日から12日の7日間運賃が半額と割引されたらしく名古屋市内の路面電車より大きく速度の早い電車の登場も相まって多くの人々で賑わった。押切~西印田間の所要時間は46分、運賃は19銭(通行税含む)であった。当時の押切駅の始発は5時10分、終電は21時30分、西印田駅での始発は5時43分、終電は22時3分であり、日中は20分、早朝深夜は40分間隔の運行が行われていた。
その翌年大正2年(1913年)1月 25日に西印田 ~東一宮間 が延長されると同時に開通時の終着駅であった西印田駅は廃止された。なお、押切駅を発車する電車はすべて東一宮行きであったため、犬山方面は岩倉で乗り換える必要があった。 こうして名古屋電気鉄道の中でも基幹路線として位置づけられた一宮線は、当時すでにあった名古屋 – 尾張一宮間を走る東海道本線と比較して遠回りになったものの運行本数の多さから人気があり、たくさんの利用客があった。 しかしながら、他路線を統合しながら大正時代から建設が進んでいた名古屋~岐阜間の名岐線の押切~新岐阜間が昭和10年(1935年)に完成すると次第にそちらのルートに主流が移行し一宮線は昭和16年(1941年)8月12日に押切~岩倉間は犬山線に編入され岩倉~東一宮間のみが一宮線となった。その後一定の需要は存在していたので運用は継続されたが、やがて戦争を迎え 昭和19年(1944年)に資材流用のため開業当時からの複線から単線化され、 羽根駅、印田駅は営業が休止された。戦後、両駅は再開されたものの やがて交通手段としての自動車が脚光を浴びてくると各地の支線のバス化が進みようになった上、国道22号名岐バイパスの建設が計画され立体交差化工事に膨大の経費が必要として一宮線の廃止が決定され路線はバス化された。 廃止区間のうち岩倉~花岡町間は道路に、花岡町から東一宮間は民有地に転用され半世紀余りに渡り走り続けた一宮線の役目は終わりを迎えた。